1793年6月15日、英国から出発した馬戛尔尼使節団は、700人以上の大規模な団体でした。この使節団は、中国との外交交渉の一環として派遣されたもので、使節団長である馬戛尔尼と副使のス当东を中心に、多くの外交官、科学者、技術者、画家などが含まれていました。今回は、この使節団が中国の舟山に到着した際の様子と、異文化の交流に関する興味深いエピソードをご紹介します。
馬戛尔尼使節団の規模と目的
馬戛尔尼使節団は、英国と中国の間で貿易や外交関係を築くための重要な任務を帯びていました。使節団の規模は非常に大きく、船に乗ったのは約700人。そのうち100人が使節団の主要メンバーで、残りの600人は水夫や家族の者などが占めていました。
使節団は、特に貿易に関する問題や、英国が中国に対して開かれた市場を求めるという目的がありました。馬戛尔尼自身は、単なる外交使節ではなく、科学的な探求心も持っていた人物で、様々な知識を得るためにもこの使節団を組織しました。
舟山島到着と文化の違い
1793年7月1日、使節団はついに中国の舟山島に到着しました。到着前の数日間、馬戛尔尼の記録には、中国との文化的な違いを強く感じるエピソードが記されています。特に興味深いのは、船の中に掲げられた乾隆帝の肖像を見た中国人商人の反応です。
商人は、乾隆皇帝の肖像を見て、即座に膝をついて地面に顔をこすりつけるようにして拝礼しました。この行動は、馬戛尔尼にとって非常に驚くべきもので、彼は日記でその異文化の違いを強く印象に残していました。
異文化交流とその影響
乾隆帝への敬意を表すために商人が行った「膝をついて地面を拝礼する」行動は、西洋文化においては非常に異例であり、馬戛尔尼にとっては衝撃的でした。西洋において、皇帝や王族に対してこうした行動を取ることは稀であり、むしろ礼儀としては不適切とされることが多いため、この行動は文化的な距離を象徴するものとして記録されました。
異文化交流の場では、このような文化的な衝撃がしばしば起こります。お互いの文化を理解し合うためには、まず自分たちの文化を理解し、相手の文化を尊重することが大切です。馬戛尔尼がこのような事例を記録したことも、後の西洋と中国との交流において大きな意味を持つ出来事となりました。
文化の違いが生む影響とその後の展開
馬戛尔尼使節団の訪問は、単に物理的な距離を越えるだけでなく、文化的な理解のギャップを埋めるための重要な一歩とも言えます。使節団が中国に到着した当時、中国は他国との関係において閉鎖的な立場を取っていたため、英国の使節団の受け入れにも困難が伴いました。
この使節団が直接的な外交的成果を得ることはできませんでしたが、文化的な違いが明確になったことで、後の交渉において重要な教訓を残したと言えるでしょう。
まとめ
1793年の馬戛尔尼使節団の中国訪問は、異文化交流における衝撃的なエピソードの一つとして記録されています。特に、乾隆皇帝の肖像に対する商人の行動は、当時の文化の違いを象徴するものであり、馬戛尔尼にとっては大きな驚きでした。文化の違いを理解し合い、尊重し合うことが、後の外交において重要な意味を持つこととなりました。
コメント